Blanket.
思えばずっと、自分の気持ちから目を逸らしていた。
それは、いつでも煌びやかな舞台で、圧倒的な速さと強さを見せつけながら活躍するはるかにも、たおやかに滑らかに、聞くもの全てが酔いしれる音色を奏でるみちるにも、いずれにも言えることだった。
共に弱音が許されない重圧と戦い(はるかに於いては、精神面だけではなく物理的な圧力にも日々抗い)、それでも世が認めた才能を持つふたりは、表向きに弱さを見せることは決してない。
それなのに、もしも神というものが存在するのであれば、なぜこのふたりに、それ以上の重みを与えたのだろうか。世界を背負わせようとしたのだろうか。
世界が破滅から救われたあの日、ふたりはこれから先、共に暮らそうと決めた。はるかからの提案だったが、みちるも二つ返事で同意した。
明確に互いに対する想いを交わしたわけではなかった。それをしたほうがいいかもしれないし、そうしたい。そんな想いを互いに抱いてもいた。それでもそれをしないままに、まずは隣にいること選んだ。長い間、世間に対する顔と使命を優先しすぎたふたりは、自分の気持ちに向き合い大切にすることを忘れていたのかもしれない。
だから一緒に暮らし始めた最初のうち、ふたりは少しだけぎこちなかった。部屋も別々だった。どことなく寂しくて、その距離を埋めたいと思いながらも、きっかけを掴めずにいた。ただ、先を急ぐ気にもなれなかった。戦い続けた日々の緊張感を思えば、例え少しの隙間があろうとも、毎日の暮らしの中でお互いの顔を合わせられることが、何よりの幸福だと思っていたから。
「これ以上、何も望まない」
いつしかそれを合言葉として眠りに就くのがみちるの習慣になった。この幸福が少しでも長く続くようにと、ただそれだけを願って。
「はるか、もしかして、あなた」
最初に気づいたのはみちるの方だった。いつもより早く起きて洗濯まで済ませている割に、ソファに気だるげに身を横たえるはるかに、少しばかりの違和感を感じた。窓の外で朝日を浴びてはためく彼女の洗濯物は、水と一緒に彼女の穢れた「何か」を洗い流したとでも言わんばかりに白く輝いて、逆にその違和感を浮き彫りにしている気がする。
「ん……ああ。今日は、ちょっと」
はるかの口ぶりからは、そこに触れて欲しくないというのが明らかにわかった。こういう時、いつもであれば明るい口調で誤魔化すのに。
「はるか」
ソファに長く伸びる足の側に、みちるは腰掛けた。一瞬、はるかの身体がぴくりと震える。本当は近づいて欲しいのに、近づいて欲しくない。相反する気持ちで揺れ動く心を如実に示すように。
「……辛い?」
穏やかなみちるの声に安らぎを覚えながら、はるかはこくりと首だけを動かして応えた。実のところ、ここ数ヶ月の中で一番辛い波が来ていた。もしかしたら、戦士として戦う間は身体も遠慮していたのではないかと思うほどに、今までは気になることなどなかったのだ。あるいは、辛くても目を背けられるくらいに保たれていた緊張感が解け、ようやく身体本来の声が聞こえるようになっただけということかもしれないが。
みちるは手を伸ばし、そっとはるかの腹部触れた。どこが痛いとはっきりとは言わなかったけれど、みちるに触れられた部分は心地よく温かく感じ、少しだけ辛さが和らぐ気がした。ずっと触れ合いたいと思っていたみちるにこんな形で触れられることになるとは、やや皮肉な気もしたが、今さら離れるのもそれはそれで気まずい思いがするので、流れに身を任せることにした。
「実はね」
少しだけ迷いを含んだ声が聞こえたので、はるかは視線を足下に投げてみる。大きな窓を背にしたみちるの顔は暗くぼんやりして見えたが、ネガティヴな表情には見えなかった。はるかは、続けて、の意味で、首を動かして彼女に続きを促す。
「わたしも、なの。昨日の夜からだけど」
困ったわね、と眉尻を下げてみちるは微笑んだ。はるかは、え、と言いかけた顔のまま静止し、みちるを見つめる。そう言えば、早く起きたはるかに比べ、みちるはいつもより少し遅い目覚めだった。互いに久しぶりのオフで、あえて予定を詰めずにゆっくり過ごそうと決めたのは昨夜のこと。だから急いで起きてこなかっただけなのだとはるかはなんとなく理解していたが、いま思えば昨夜の時点から、みちるは今日あまり動けないと予測していたのかもしれない。
「そう……」
はるかは視線を前に戻した。海の潮が満ちて引くのに明確な周期があるのと同様に、自分たちの身体も、何か大きな引力に左右されているという話を聞いたことがある。けれど、それが他人の周期と重なるかどうかまでは意識したことがなかったし、初めての経験だった。そもそも自分の身体に周期的に訪れる調子を、誰かと共有した経験もない。
やさしくさすられる腹部の温もりを感じて目を閉じていると、しばらくしてみちるが、ねえ、とはるかに提案した。
「今日は自分をとびきり甘やかして過ごすのはどうかしら?」
みちるがにっこりと微笑んで、言った。
案の定、みちるはきちんと予測を立てた上で薬を飲んで眠ったらしく、はるかよりも元気な様子だった。対して、普段は滅多にない痛みに襲われるはるかは、自身が身体を資本とするアスリートであるが故に、余計にこの状況が情けなく感じていた。
ソファで身体を丸め、みちるが掛けてくれたブランケットにくるまっていると、目の前でことりと音がする。目を開けると、湯気の立ち上るティーカップがふたつ置かれているのが見え、芳しいハーブの香りが漂っていた。
「ありがとう」
ブランケットから目元だけを出して覗くはるかの様子が可笑しくて、みちるは思わずくすりと笑った。外ではスマートで格好いいはるかが、猫のように身体を縮めて横たわる姿も可愛らしいと思ったし、それを見られるのが自分だけであることも、とてつもない喜びに感じた。そうやって真正面からはるかを見つめることができるこの機会に、不謹慎ながら感謝の念すら覚えてしまいそうだった。
はるかははるかで、同じく身体に重りを抱えているはずのみちるに世話されていることに、どこか決まりの悪さを感じながら、そんな日も悪くないと思い始めていた。彼女はいつも頑張っていた。ヴァイオリニストとして華やかな舞台に立つ時も、戦士として敵に立ち向かう時も。その細くしなやかな背中からは考えられないほどに強く。その彼女が、今日は自分を甘やかそうと言った。優等生の彼女がもし「学校なんてサボってしまいましょう」と誘うなら、こんな表情をするかもしれない。そんな笑顔だった。弱音を吐いたり甘えたりする姿を見せないみちるが言ったその一言は、実はとても大事なことなのではないかと、はるかは密かに思っていた。
ふたりの間の空気が、たゆたうハーブティの湯気とともに、ゆらりと揺れる。
「ねえ、みちる」
身体を起こしハーブティを口にしたはるかは、カップをテーブルに戻してから、正面のソファに身を預けるみちるに言った。
「こっちに、来て」
はるかの言葉に、みちるは目を丸くする。それからすぐに、頬が熱くなるのを感じた。はるかがまっすぐにみちるを見て、そっと手を伸ばしていたから。瞬時にその意味を考えてしまい、心臓が音を立てて鳴るのを感じた。
「おいでよ」
躊躇うみちるにそれ以上考える間を与えぬよう、はるかがすかさず声を掛けた。みちるは戸惑いながらも、導かれるようにはるかの元へ歩いた。伸ばされたはるかの手に、自らの手を重ねる。
はるかに促されて、空いている右側に座った。はるかは羽ばたくよう腕を伸ばして、自分とみちるの背中にブランケットを掛ける。ふたりはすっぽりとブランケットに包まれた。それからはるかは、右手でみちるの肩を抱き、ぐっと身を寄せる。
「えっ」
唐突に縮まった距離に、みちるは驚きを隠せずにいた。ほんの少し高い位置にあるはるかの横顔を、そっと覗き込む。淡い金髪が流れるなめらかな頬とその髪間から見える形の良い耳が、ほんのりと染まり艶を放っているのが見えた。
「あのさ」
はるかはみちるの方は向かず、まっすぐに前を向いたまま、言った。そこにある種の「いつもとは違う何か」を感じたみちるは、身を固くしたまま聞いていた。はるかから発せられる言葉を、ひとつも落とさぬよう、耳を澄ませて。
「いつもこうでも、いいと思うんだ」
はるかが頬を緩め、みちるの方を向いた。真正面からふたりの視線がぶつかる。みちるははるかの瞳の中に、穏やかな風を感じた。戦士として戦う間、ずっと嵐のような強風が吹き荒れ、強い力を生み出していた瞳の中は、いま、とても優しい風が吹いている。初めて会った時から、何かを追い求め、どこか追われているようにも見えたはるかの、本来の瞳の色なのだとみちるは感じた。
「……うん」
みちるは小さく頷いた。左側のはるかの腕に、そっと身を預けてみる。それからはるかの膝に置かれた彼女の手に、自らの手を重ねた。自分の身体に接するはるかの全ての部位が温かく、心地よく感じる。それはみちるの中で凪ぐ波を動かした。沖から押し流されるよう、強く、しかし穏やかに、みちるの中から溢れ出てくる。全身が緩み、瞼の裏が熱くなるのを感じた。
「わたしたち、自分の気持ちから目を背けすぎていたのかもしれないわ」
心も、身体も。いつだって、表向きの生活と使命が最優先だった。それらに気持ちを向けることで、余計なことを考えずに済んだから。甘い誘惑への逃げ道を無くすことができたから。
みちるの言葉に、はるかも頷いた。しなだれかかるみちるの頭に、自分の頬を寄せた。彼女の愛用するシャンプーの香りと、彼女自身の香りが混ざり、鼻をくすぐる。血と埃と、死の匂いから生還したはるかに、間違いなく彼女がそこにいることを感じさせてくれる。
「好きだ。みちるのこと」
はるかは呟いた。みちるはゆっくりと、凭れかかっていたはるかの腕から顔を上げた。再びぶつかったはるかの瞳が、溢れそうになっていることに気づいた。ああ、はるかは自分の気持ちに向き合おうとしているのだと、みちるは思った。
「わたしもよ。はるか」
言いながらみちるは、重ねた手に力を込めた。自分より一回り大きく、細く綺麗な指のラインを感じる。あの日、はるかの手が好きだと言いながら、本当は手だけでなくあなた自身が好きなのだと伝えたかったことを思い出した。
「わたしも、はるかが好き」
温かさを超えて熱くなっているのに、それでもふたりはずっとブランケットの中にいた。外には皆で守ってきた世界があり、変わりない日常が繰り広げられているのに、いまこの瞬間、たったふたりだけの世界にいるような、そんな気持ちになっていた。
「ぼくはみちるに、ずっと隣にいてほしいし、触れ合いたい」
はるかが、身体をずらしてみちるの方を向いた。額がこすれそうなまでに近づく。かつてないまでに間近に迫った鼻梁と唇のラインに触れてみたいと、みちるは思ってしまった。
「あと……は。キスもしたい」
みちるの頭を掠めた欲望にぴったりと重なるはるかの言葉に、思わずどきりとする。これほど間近で見つめられているのだから、自分の欲望はどれほどに透けてみえてしまっているのだろう。そう思うと恥ずかしくなったが、それ以上に心が躍っていた。はるかは自らの欲望を晒け出し、自分に明かしてくれた。どうしてそれを恥いる必要があるのだろう。
はるかの視線が、先に進むことを問うている。みちるもそれに応え、小さく頷く。どちらからともなく目を閉じて、近づいた。整った鼻筋が掠めあい、熱を持った柔らかい唇が重なった。接する部分が、その場から溶かされていくようだった。今までの人生で経験した、他のどんな感触とも、どんな感情とも形容し難いものを、ふたりは互いの唇を通じて感じていた。
やさしく触れ合うようなキスを一度。それから、少しだけ長めにもう一度。高鳴る鼓動と相手の吐つく息だけが聞こえる世界で、初めてふたりの想いが重なった。
はるかの腕が、そっとみちるの腰に回された。薄い部屋着を通じて感じられるはるかの指先の感覚に、みちるは肌が粟立つような思いがした。たった一点の身体の部位から、全身に喜びが駆け抜けるようだった。みちるもはるかの背中に、自らの手を這わせる。自分がここにいて、はるかを感じていることを、はるかにも同じように感じてほしいと思った。
しばらくの間、ふたりはそうして、互いをぎゅうと抱いていた。ふたりを外界から隔てていたブランケットが、するすると肩を滑り、流れるようにソファへ落ちていった。それでも構わず、ふたりは重なっていた。
やがてふたりの唇が離れたあとも、しばらくふたりは触れ合い、お互いの熱を感じていた。みちるの柔らかな身体の下で波打つ命を、はるかのしなやかな身体の中に脈打つ命を、お互いが感じあった。
「もっと触れたかったけど」
はるかが苦笑いしながら、身体を離した。その意図を汲んで、みちるもはにかむ。でも、これ以上触れ合ったら、止むに止まれないかもしれない。はるかの指が、みちるの頬に触れた。ほんのりと滲む涙を掬う。気持ちがほぐれて緩んだ時にも人は涙するのだと、みちるはぼんやりと思った。
これ以上は、前に進めない。けれどそれでもいい。彼女が隣にいて、思いが通じていれば、それで。
「でも、次は」
次は、きっと──。碧い髪を梳き耳許で低く響くはるかの息遣いは、告げられないその先に待つ愉しみを思わせ、みちるの身体の奥底を震わせる。明日が、一週間後が、間違いなくやってくるであろうこの世界で、愛するひとりの人と何かを待つ悦びを、ふたりは噛み締めていた。
「はるか!」
「わっ」
突如、はるかの身体が、勢いよくソファに沈み込んだ。みちるがはるかのしなやかな腰を思い切り抱き、身体を重ねる。不意打ちに驚く間もなく、みちるが笑い始めた。はるかはあっけに取られて、彼女を見つめる。みちるが心の底から楽しそうに笑う姿を、はるかは見たことがなかった。
息が乱れるほどに笑い、はるかのお腹に顔を埋めてから、みちるは呟いた。
「わたし、今日はなんだか、とびきりあまやかされたい気分よ」
みちるの一言に、はるかはきょとんとした後、一拍遅れてから気が付いた。ああ、彼女はいま、ようやく自分の気持ちに向き合うことができたのだと。
「ぼくもだ」
そう、ぼくもやっと、向き合う事ができたのだ──はるかはみちるを受け止め、ぎゅっと抱く。それから先ほど彼女がしたように、思い切り笑った。
何ものにも邪魔されることのないふたりの世界で、日がな一日甘やかし合い、ただ笑うだけの日。
湯気の消えたハーブティの香りだけが、静かにそこに残り続けていた。