Cocoa
小さい頃、私は朝の時間がとても好きだった。
いつも仕事が忙しく、一緒に遊んだ覚えなど数少ない私の父親だが、娘と過ごす朝の時間をとても大切にした。朝のヴァイオリンのお稽古の時間には父も必ずお稽古部屋にやってきて、私の弾くヴァイオリンを聴いてくれたものだ。
出張でしばらく家を空けた後などに久しぶりにお稽古部屋に現れた際は、決まってこう言っていた。
「みちるのヴァイオリンを聴かなきゃ、一日が始まらないんだ」
父がそう言って微笑む姿は、私の心の中にずっと残っている。
私が落ち込んでいたり、気分が乗らないとき、父はいつもすぐに気づいてくれた。きっと私が奏でるヴァイオリンの音に、明確に表れていたのだろう。
けれど父は、私にそれを指摘することはなかった。何も言わず、私が気づかないうちにそっと部屋を抜け出すのだ。そしてお稽古が終わる時間に、こっそり戻ってくる。カップを二つ手にして。
「みちる、ココアを入れたよ」
穏やかな笑みを浮かべて、お稽古が終わった私をテーブルに招く。父は海外を飛び回ることも多く、各地で手に入れた美味しいコーヒーや紅茶、ココアなどを、お土産にどっさり持ち帰ってくる。小さい頃は、パウダーをしっかり練った上で砂糖をたっぷり入れたココアが定番だった。
「甘いわ」
「お砂糖二杯がちょうどいいんだ」
本格的なココアパウダーで作られたココアは苦味もそれなりにあるからと、父が作るココアはいつも砂糖が多めで甘かった。私が毎回その甘さに驚いていると、父は悪びれる様子もなくニヤリと笑った。
それは、幼い私が飲みやすくするための配慮でもあっただろうし、何より父自身が、甘いココアを好んでいたのだろう。私が成長して飲めるものが増えてくると、自然と紅茶やコーヒーを出してくれる日も増えたが、ココアを飲んでいる時の父の表情が一番幸せそうだったことに、私は気づいていた。
そんな父の表情を見ていると私も落ち込んでいたことを忘れたし、ココアの甘さは朝のお稽古で疲れた私の心と身体を元気にしてくれる気がした。
中学生の頃、私は戦士として覚醒し、戦いの日々に身を投じることとなった。けれど、もちろんそれを家族や身近な人に知られるわけにはいかなかったから、なるべくそれまで通りの生活を続けるようにしていた。ヴァイオリンのお稽古もその一つで、どれほど徹夜で戦いぼろぼろになって帰宅しても、朝のお稽古はなるべく欠かさずに続けていた。
戦いで顔と腕に大きな傷を負って帰ってきた翌朝も、私は迷った末、何事もなかったようにお稽古をすることにした。父と顔を合わせるのは朝だけだったから、何か聞かれたら学校で怪我をしたことにすれば良いと思っていた。
先にお稽古部屋でヴァイオリンの調律をしていた私の姿を見て、視界の端に映った父の顔色が変わるのがわかった。何か言いたげであることは明らかだったが、詮索されるのが怖かった私は、何も言わずにお稽古を始めた。
やがて父は、いつも通りお稽古の途中で席を外し、カップを二つ手にして戻ってきた。中身は、たっぷりの甘いココアだ。部屋に漂う香りですぐにわかった。
「みちる」
テーブルに着きココアを飲み始めると、父は口を開いた。私はなぜか顔を上げられなかった。ヴァイオリニストである私が顔や腕を怪我して、父は怒っているか、悲しんでいるか、そのどちらではないかと思ったからだ。私はじっとカップの中のココアを見つめていた。温かいココアの上に漂う柔らかな湯気が、私の表情を隠してくれれば良いと思った。
父はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「僕はいつでもみちるの味方であり、ヴァイオリニストである君のファンでい続けるよ。だから…………」
私は思わず顔を上げた。優しい瞳と目が合う。私と同じ、深い水の底のような蒼い瞳。
そこから先を、父は話さなかった。けれど父が何を伝えたいのか、私にはわかった。
父は私が秘密を抱えていることを知っている。知った上で細かい内容を詮索せず、私を信じ、自分が味方であることを伝えようとしている。
きっと以前から、違和感を持っていたのだろう。かすり傷の増えた私の身体に気づいていたのだろう。寝不足と疲れで不安定な私の音色に気づいていたのだろう。気づいていながら、私がそれを隠そうとしていることもわかっていたから、ずっと気づかないふりをしていたのだと思う。
私はまた、カップのココアに視線を落とした。カップに施された繊細な模様がぼやけて滲む。今度こそ湯気だけでは自分の表情を隠し切ることはできないと思い、私はカップのココアを口にして誤魔化した。
「……ありがとう、お父さん」
掠れた声で呟いた声が父に届いたかどうか、私は確かめることができなかった。
無限学園の入学の際に家を離れ、その頃から父と朝の時間を過ごすことはできなくなった。学園崩壊の折にはるかとの同居も始めたため、結局その後実家に戻ることはなかった。だが父はあの時の言葉通り、私のファンとしてコンサートには必ず足を運んでくれる。
一緒に時間を過ごすことができなくても、父は頻繁にお土産のコーヒーや紅茶を私に送ってくれた。もちろん、世界各地のココアも一緒に。
ヴァイオリンのお稽古の後にそれらを楽しむのが私の習慣となった。そしていつしか、はるかもその時間に付き合ってくれるようになった。
「美味しい」
父が淹れてくれたものと同じように、しっかりと粉を練って砂糖をたっぷり入れたココアを口にして、はるかは言った。
「お砂糖を二杯入れているの。甘すぎたかしら」
「ううん。すごく僕好みだ」
甘いものが好きなはるかは、とてもよろこんでくれた。作り方を教えたら、私のお稽古が終わるタイミングで彼女が進んで作ってくれるようにもなった。
私にとってまた、朝の時間は幸せな時間となった。
「そろそろお時間です」
背後から声をかけられて、私は目を開けた。
鏡には、ヴェールに包まれた花嫁が映っている。エメラルドグリーンの髪は丁寧にまとめられ、キラキラとした装飾が施されているのがヴェール越しにもはっきりとわかった。視線の下には、たっぷりとしたチュールのあしらわれた憧れのドレス。
「行こうか、みちる」
鏡に映り込んできたはるかは、シルバーがかったタキシードに身を包んでいた。
恭しく差し出した手に、自らの手を重ね、微笑む。彼女のリードで前に進むと、これから待ち受ける未来に心がうきうきと踊り出すような気がした。
――ねえ、お父さん。
私はあなたのように、甘いものが好きで優しく、私のことを気にかけてくれて、一緒に朝の幸せな時間を過ごしてくれるパートナーを見つけたの。
今日は、あの日きちんと言えなかった言葉を伝えたい。
そう思いながら、私ははるかと共に向かった。
父が待つ、ヴァージンロードへ――。