immoral
――今日は人がいないのであれば、少し高いところの掃除をさせてもらおう。
私は思い立って、天井を見上げた。シンプルではあるが、いかにも高級そうに見えるライトがぶら下がっている。目に見えるほどの埃はついていないが、そろそろ掃除をしたほうがいい。
高いところの掃除をするには、脚立がいる。以前必要になった際は、テンオウ様の手助けがあったので事なきを得たのだが、今日はそうもいかない。私は脚立を探しに、廊下へ出た。
確かストックルームに、脚立があったはず。長い廊下の奥の小さなその部屋を目指して歩いていると、ふと、上からなにか音が聞こえた気がした。思わず立ち止まる。
――誰か、いるのかしら。
住人に挨拶もせずに上がりこんで掃除を始めてしまい――もちろんそれが私の仕事なのだけれど――少々の気まずさがあった私は、人がいるのであれば声を掛けておくべきだろうと、二階へ上がった。
二階には寝室と学習部屋がある。先ほど階下で物音を聞いた部屋のそばまで寄ると、そこはカイオウ様の寝室だった。わずかばかりドアが開いている。
――中を、確かめた方がいい?
ドアノブに手を伸ばしかけて、私はすぐに引っ込めた。おやすみなのであれば起こすべきではないと思ったのが先だったが、その直後、寝室から、明らかに通常ではない声が聞こえたからだ。
私は思わずハッと息を呑む。それは間違いなく、家主の一人であるカイオウ様の声だった。とっさに引っ込めた手をまたドアノブに伸ばし掛ける。一瞬苦しんでいるようにも聞こえたその声に、「助けなければ」という気持ちが動いたのだ。
しかし、目まぐるしく動く思考がその手を止めた。
――違う……。
それはまるで何か、身体に強いセンサーがあって、それが私を引き止めたかのようだった。第六感とか、直感とか、そういうものかもしれない。とにかく私は自分の中の何かに止められて「開けてはいけない」と悟った。心臓が途端にバクバクと音を立てて鳴り出し、私は思わず一歩下がった。音を立てないよううずくまり、耳をそばだてる。自分の鼓動の隙間から、しんと静まり返る家の空気に意識を集中し、室内の様子を窺った。
「はっ……みちる」
「んっ……はるか……あ」
かすかに聞こえたのは、カイオウ様の他に、テンオウ様の声。カイオウ様と同じく少し乱れた息遣いに、私は自分の直感が正しかったことを悟った。
ああ。これは――。
声を掛けてはいけない。何事もなかったことにして、下に降りて掃除を始めなければ――。
しかし、私はなぜかすぐに動き出すことができなかった。頭では理解していて、早く動かなければと思っていたのに、まるで身体が硬直する魔法にかけられたかのように固まってしまっていたのだ。
そればかりか私は、ますます室内に意識を向け、かすかに聞こえる声をその耳に捉えようとすらしていた。そのことに気がついて身体がかっと熱くなったが、意識を逸らし立ち上がることはできなかった。
――魔法。もし私がなにかに惑わされているのであれば、まさしく二人の声がそうなのかもしれない。
だって、こんなにも蠱惑的で美しい声の結びつきを、今までに聞いたことがあるだろうか。
ともすればはしたないとか、厭らしいとか言われてしまうような声と行為が、これほど美しく人を惹きつけるものになるのか。
願わくば、ひと目だけ、その姿を見ても良いだろうか――つい先ほどまであれほど立ち上がれないと思っていた私の足に、急に力が入った。熱に浮かされたようにふらふらと立ち上がり、音を立てないようドアに近づく。その時の私に、海王家の仕事の守秘義務の厳しさとか、決まりを破った場合の処罰とか……いや、そもそも人としてのモラルや常識とか、そういったものを深く考える余裕などなかった。
ただ、人間の美しさの究極がそのドアの向こうにあると信じ、私はそれをひたすらに求めていた。
ふわふわと夢見心地の状態でありながらも音を立てないよう細心の注意を払い、私はドアに近づいた。片目で覗けるほどの薄いドアの隙間に右目を当てる。
大きなベッドとドレッサーが置かれた寝室が見えた。手前のベッドは、頭をドアがあるこちら側の壁に接するようにして置かれている。その上に、エメラルドグリーンの髪が流れるように散り、黄金色の短髪が揺れ動くのが見えた。シーツとブランケットの狭間に、しっかりと絡んだ手と折り重なる素肌だけが見えている。
僅かな視界の範囲に捉えるそれらの様子は、決して全景が見えるわけではないにも関わらず、一瞬で私の目を惹きつけた。想像していた以上の美しい世界に思わずため息が漏れそうになり、私はそっと自分の口を塞ぐ。
私が見ているなどとはつゆほども思わないであろう二人は、高みへの到達を目前にして、互いを夢中で求めあっていた。苦しげな、だけど美しき声の隙間から互いの名前を呼び合う。
二人の力の籠もり具合に、私も思わず全身を強張らせてしまう。ぐっと握りしめた手に汗が滲み、心臓はドキドキと強く打ち続けていた。
「いいよ……」
テンオウ様がささやくようにそうつぶやいたので、私はハッとする。
その瞬間、カイオウ様の声が一段と高まって、ぷつりと途切れた。
ぎゅうと抱きしめ合い、全身で互いを掴むその姿は――まるで愛を具現化させたような光景。
愛し合う一連の行為が終わったことを悟り、私は全身が燃えるように熱いことに気がついた。私自身は何もしていないというのに、私自身も炎の中に身を投じたかのような気分になっていた。思わず大きなため息をつく。
――テンオウ様の視線がこちらに向いていると気づいたのは、その時、だった。
熱さに包まれていた全身が一転して、さっと血の気が引いて一気に冷たくなった。私の体は再び硬直し、そこから動けなくなる。
荒く息づき、目を閉じるカイオウ様の上に重なるような状態で、テンオウ様は顔をこちらに向けていた。明らかにその視線が自分のそれと重なっていることを感じる。
やがて、その美しい唇のラインがきゅっと結ばれ、ゆっくりと孤を描く。テンオウ様が口角を上げて笑ったのだった。
その瞬間、私は――魔法が解けたかのように身体の硬直が解け、急に我に返った。くるりと踵を返し、音を立てないようにしながらも大慌てで階下に降りる。混乱した頭がせわしなく動き、本来行うはずだった掃除のために、身体に動けと司令を出し始めた。
とにかく、何事もなかったかのように仕事をしなければならない。なぜかそう感じて、頭と身体をフル稼働させ、私は通常の業務に戻ろうとした。
多分、私があの部屋を覗いてからここに至るまで、せいぜい数十秒から一分少々だったと思う。だけど、まるで長く壮大な映画を見たかのように、心が恍惚していた。掃除中に一瞬でも気を抜けば、先ほどの出来事を思い出してため息をついてしまいそうになるから、いつも以上に掃除に集中し、目の前の汚れをやっつけることだけを考えていた。
「ああ、いらしていたのね。ご苦労さま」
二人が上階から降りてきて私に声を掛けたのは、それから二十分ほど経ってからだった。一糸まとわぬ姿だったカイオウ様は、上から下まで、衣服はもちろん髪もメイクもきちんと整った状態でにっこりと微笑む。テンオウ様も同様だった。
「あ……はい。お借りしていた鍵で、上がらせていただいていました」
「そう。今日もよろしくね」
カイオウ様がそう微笑んで、キッチンに飲み物を取りに行くのであろう、そちらに向かって歩いていく。テンオウ様だけが私の前に残り、軽くかがんで言った。
「今日もよろしく……ね」
含みのある囁きに、意味深に輝く瞳。さっと顔が熱くなるのを感じ、何も答えられないまま、私は黙って頷く。
テンオウ様は私の応答を見て満足げに微笑んだかと思うと、さっさとその場を離れてしまった。
その瞬間、私たちは秘密を共有した――。
テンオウ様は、私が見ていたことを知っていた。おそらく、目が合ったあの瞬間だけでなく、その前からも。知っていながら私を咎めるつもりはないらしい。それどころか、見られたことを楽しんですらいるように見える。
なんと驚くべきことだろう。使用人の覗き見を咎めなかったことはもちろんだが、自分たちの行いを恥じる様子もなく堂々としている姿は、自分たちの美しさを自覚し、愛し合う行為を肯定的にとらえているようにも感じられ、清々しい。
元々彼女たちの美しさや寛容さには感じ入ることが多かったが、これをきっかけに私はますますこの家の住人たちに魅了されたのだった。
――あの日以降、あの鍵を使うべきタイミングは、まだ、ない。